アディショナルタイム(ロスタイム)

                                  横浜港

アディショナルタイム(ロスタイム)

 12月2日の朝寝は、出来なかった。

 サッカーの試合が朝4時から始まったからである。

 俺は、熱烈なサッカーフアンでないが結果が気になる

 強豪ドイツに日本サッカーチームが勝った時にはびっくりした。

 日本も世界的に強くなってきたのだな。

 と思っていたら、次の試合のコスタリカには、負けてしまう。

 コスタリカと引き分けか勝つと決勝進出が確実なのに。

 残念。

 コスタリカ戦は、日本中誰もが勝つと信じていたのに。

 コスタリカはスペインに7点も入れられて負けているので、誰もが弱いチームと思ってしまう、

 日本チームもコスタリカ戦では試合の前半には、フアイトが足りないように見えた。

 死にもの狂いで向かってくる、相手に当り負けをしてしまった。

 次はスペイン戦。

 スペインは常連の優勝チーム。

 俺の予想では、2ゼロで日本の負け。

 従って、12月2日の朝4時からの試合は見ないことにして寝た。

 2日朝5時過ぎ テレビの声がうるさい。

 家内が興奮して、お父さん同店になったよという。

 うるさいな、こんなに早く目を覚ますのではないかと家内に文句を言ったが、スペインに同点だとーーーなんだ なんだ。

 すごいではないか、完全に目が覚めた。

 そして食い入るようにテレビの試合を見続ける。

 又日本のゴールが決まった、1点リード。

 信じられない。ガンばれ日本。油断するな。

 ついに45分の試合時間まで頑張った日本。

 残るは7分間のアディショナルタイム

 日本チームは、かっての試合でチームが勝っているのに、いつもこの時間に負けたり、引き分けになったりする。

 油断するな、走れ 走れ。

 監督は冷静だった、5人の交代選手枠を見事に使い、元気のいい選手に変えた。

 後3分だ、頑張れがんばれ、興奮する俺。

 ついに時間は終了、日本チームの勝。

 俺の予想は外れたのが嬉しい。

 チーム一丸となり頑張った日本、

 よくやりました、おめでとう、

 今日のテレビはこのサッカー試合で盛り上がるであろう。

 それにしてもロスタイム7分間は長かった、 

 俺は、最後の試合内容は見ていない。

 ロスタイム ロスタイム。

 あと2分あと1分、1秒がこんなに長いとは。時計ばかりを見ていた、にわかサッタカーフアン俺でした。

 12月7日の夜も寝不足だ。

 サッカー、クロアチア戦、

 PK戦で残念ながら、負けてしまった。

 解説者の本田は、PKは運があるからというと、スペインの監督は,内のチームは、千本の練習をさせている、PKは運ではないと、発言していた。

 翌日、スペインは、モロッコにPK戦で負けている。

 勝負は、時の運も味方になるのだ。

 他人のことは、なんとでもいえる。

昭和41年(1966年) 航空事故

                                 横浜

昭和41年(1966年)の航空事故

 この年は、日本の航空界にとっては、最悪の年であった。

 航空事故がたて続きに起きた年である。

 2月4日 B社のB727が羽田沖で消息を絶つ。

 墜落だ。

 札幌の雪まつりの帰りの満席のお客様を乗せたまま、東京湾の藻屑と消えた。

 その後、引き上げ作業をして原因を確かめたが、結論は出ていない。

 俺なりに推測すれば、空中でのスピードを制限する、スポイラーの作動ミスではないかと思う。

 進入中の航空機の窓から見ると、翼の上に、飛び出る鉄板がスポイラーだ。

 このスポイラーは制限事項として、3千フイート(千M)以下では使用禁止になっているが、納めるのを忘れたか、納めたのに機能しなかったのか。

 これを使用していると、降下レートは急激に増して、海に突っ込む。

 回復操作には、高度な技術が必要だ。

 また、当時は、パイロットは、飛行機野郎と呼ばれた時代だ、

 航空法は出来たばかりで、機長判断で、比較的自由に大空を飛行出来た時代だ。

 有視界飛行、計器飛行とを自由に切り替えて飛行できた。

 有視界飛行は管制官の指示に従わずに自由に飛行できた。

 大阪から羽田まで現在は1時間以上かかるが、当時27分で飛行した記録もある。

 早く飛行しようと、当時の機長はいろいろと研究したものだ、

 札幌から帰りの便も、早く羽田に降ろしたいという、機長判断が事故を招いたと思う。

 昭和41年のB社の事故の1か月後の3月4日事故が発生する。

 ホンコン発のカナダDC8が羽田の霧の中で進入灯に足を引っかけて、防波堤に衝突する、

 ILSと言って、飛行機の進入角度を示す装置が、故障したのか、なかったための事故だ。

 現在では、起こらない地上装置の不備による事故。

 さらに、この事故の次の日にはイギリスのB707が富士山付近で空中分解する。

 日本の冬場で季節風の一番強い日でもある。

 機長は、お客様サービスで香港に帰る途中の富士山を見せようとして、富士山に近寄る。

 山岳風と言って、富士山を超えた風は、ぐるぐるまわりをする。

 乱気流の中で、飛行機は分解か。

 機長判断ミス。

 さらにさらにだ。

11月13日、松山空港でYS―11が着陸をやり直してすぐに消息を絶った。

 原因は不明のまま。

こんなわけで昭和41年は、日本の航空界にとっては、最悪の年になった、

 

デジタル化

                                横浜みなとみらい

 デジタル化

 世の中は、すべてがデジタル化に進んでいる。

 アナログ人間には、住みにくい世の中になってきた。

 新聞の読者欄に、塾の先生が書いていた。

 小学1年生に時計の読み方を教えるにアナログの文字盤の時計で教えるが、針の微妙な位置がもつ意味を正確に理解するのに時間がかかる、児童がいるという。

 児童の家の時計は全部デジタル表示の時計らしい。

 また、現在のお母さんは、買い物でキャッシュレスを使用する。 

 一緒に買い物について行った,児童は現金の受け渡しを見ていない。

 お金を使ったことのない、児童もいる。

 先生、お釣りって何ですか、と聞かれてびっくりしたという。

 10円たす10円はいくらですか、と尋ねてもすぐには、答えが出ない児童がいるという。

 困ったものだ。

 逆にアナログ人間の俺にとっても、困ることも多くなった。

 コンビニで若者が、スマホで買い物をしているのを見ていたら、支払いがとっても便利そうに見えた。

 俺もかっこよく、スマホで支払いをしようと思った。

 仕事で忙しい息子を掴めて、俺にもこのスマホで支払いが出来るようにしてくれ。

 と依頼した。

 すぐに、エデイとかいう、支払いが出来る、アプリを作ってくれた。

 それでは、さっそくコンビニで使ってみようと、勇んでコンビニで買い物をした。

 支払いは、このスマホで。

 画面にタッチして、お客様の項目をタッチして下さい。

 沢山のアプリとか言うものが、現れた。

 ヘー、こんなに、支払うアプリがあるのか。

 びっくりだ。

 お客様の使用アプリは、なんですか。

 エート エート

 確か、エデイとかいうらしいです。

 では、画面のエデイにタッチして、下さい。

 ハイハイ。

 スマホをかざして下さい。スマホの画面をかざす。

 ハイハイ。

 決済が出来ない。

 出来ません、それではバーコードを出してください。 

 エツ、 バーコード。どうするの。

 分からない、俺の後ろにお客さんが並びだした。

 並んでいる客がイライラするのが、分かる。

 俺も焦るがどうしようもない。

 すみません、現金で支払います。

 あらかじめ用意していた、現金千円札で決済を済ませた。

 俺はスマホでスマートに決済は出来ないことを認識した。

 スマホの画面でなくスマホの画面の反対側のカメラのレンズの方を、なんとかいう、認識機械の光に飾すらしい。

 コンビニで次回、お客さんのいない時に再度挑戦しようと思っている。

 過度のデジタル化、キャッシュレスは、子供や俺のような、アナログ人間には、弊害になる。

 世の中の進歩には、ついていけなくなったのかなーーーーーー

 

 

その2 YS-11

                            神奈川県県庁

その2 YS-11の思いで

 俺は昭和48年、自衛隊防衛庁割愛制度により、自衛隊を退職して、航空会社C社に入社した。

 C社で初めて乗務したのがYS-11だ。

 当時C社は主力の飛行機はYS-11,その他にジェット機DC-9中型機が入ったころで、大型機のA300、DC-10などは、なかった。

 当時の政府の航空政策は。A社が国際線、B社が儲かる日本の幹線、C社は儲からないローカル腺という基準で行われていた。

 政治家の裏の操作で航空界は動いていた時代である。

 一方航空産業は、戦後中止されていたが。昭和30年代から動き出す。

 何しろアメリカと戦って、負けず劣らずのゼロ戦を開発した日本の航空技術は,継承されなければ、すたれてしまう。

 日本製造の飛行機を作りたい。

 5人の侍が立ち上がる。

 木村先生、堀越二郎先生等だ。

 ゼロ戦は、戦争初期のころは、アメリカが愕いた程の、性能であった。

 しかし、戦争の末期には、人命軽視の思想の、飛行機になってしまった。

 アメリカの飛行機は、操縦室は、完全に保護されている。

 ゼロ戦に、操縦席を射撃されても、パイロットは無事だ。

 ゼロ戦は操縦席の後部にある、鉄板も取り外す。

 ゴムは日本にないので、0戦の翼にある燃料タンクの外側に貼ることが出来ない。

 従ってアメリカの飛行機の機銃射撃に遭うと、すぐに。火が付く設計になる。

 この話しを先輩の元0戦の教官から聞いた時は、俺は涙した。

 飛行機製造を諦めない、航空関係者により。YS-11は、誕生する。

 俺がC社に入社した昭和48年ころは、YS-11の製造は縮小され、YS-11のために作られた,日航製の会社は、解散の時期に当たる。

 そこで働いていた航空技術者は航空会社やその他に転職の時期でもあった。

 C社にも、沢山の日航製の社員だった人がいた、

 主に操縦士訓練所の座学教官として働いていた。

 その教官の方からの、お話で、なぜYS-11という名前が付いたのかを聞いた。

 それは、横浜 杉田で11月に会いましょうのスローガンを出して、横浜の杉田にYS―11の模型を作り、財界人や政府関係者を招待したという。

 そのYS-11のモックアップで宣伝、説明で、ようやく政府の予算が付いたとお話を聞いたこと思い出す。

 戦後、初の日本人製造の飛行機YS-11に乗れたことは、俺としては、最高だ。

 日本で戦後初めて製作された、YS-11、懐かしく思い出す。

皆既月食

                               イーチャン

 皆既月食

 442年ぶりの、皆既月食と、新聞に出ていた。

 皆既月食は、そんなに珍しいのか。

 良く新聞を見たら、皆既月食と惑星食が重なるのが、442年ぶりということらしい。

 時間は18時ころから21時ころになるという。

 今夜は,剣道の稽古日だ。

 剣道の稽古時間は、19時から20時30分まで近くの小学校の体育館で行う。

 18時30分ころ、稽古のため家を出る。

 夜空を眺めると、雲一つない空には、お月様がいた。

 満月の左下の部分が黒く欠けだしていた。

 皆既月食で地球の影に入りだしたのだな。

 剣道の稽古を今夜は止めて、月見にしようと思うがそうはいかない。

 19時から、子供たちと剣道の稽古を始める。

 俺の剣道稽古中に、月を見ていた家内の話によると、お月様は19時30分頃には、全部なくなったという。

 ただし、黒色にはならず、赤黒の赤銅色に変わったという。

 剣道の稽古が終了して、20時45分頃、体育館を出ると、右上の赤い月が待っていた。

 赤い月か。

 どこかの小説で読んだことのある月だ。

 不思議だなーー

 家に帰り、剣道帰りの美味しいお酒を飲みながら、お月様を見る。

 左半分の三日月になっていた。

 この夜空の三日月を写真撮影すると、薄い満月となるのも、不思議だ。

 21時からのN局のニュースを見ていたら、お堅いN局では珍しく、皆既月食の項目の初めに、岐阜の信長お祭りの、キムタクの画面が出て。おのおの方、出陣だーーの場面が出た。

 お堅い報道のN局も少し柔らかくなって来たのか。 良いことだ。

 テレビの画面では、月の下側にある天王星が小さく映り、出していた。

 月がこの天王星を、隠していたのが、出てきたらしい。

 つまり、お月さんの皆既月商と惑星の天王星食が重なったわけで、この2重の現象が442年ぶりとなることらしいな。

 天文学者、星の観測の好きな人には、たまらない現象だという、

 夜空の惑星を交えた、お月様の天文ショウー。

 信長時代の惑星は、土星食だという。

 信長もこの現象を見たのではないかというが、本当に見えたのか疑問だ。

 天文望遠鏡が日本に入ったのは、家康時代からだ。

 戦に忙しい織田信長は、ゆっくりお月様を見上げる時間は、あったのかな、

 そんなことは、どうでも良いか。

 俺は、月を眺めながら、焼酎のお湯割りを、もう一杯飲もう。

 今日も良い日だ、これが本当の月見酒だな。

 幸せを感じる夜でもある。

ストライキ

                                  港

 ストライキ

 ここ数年ストライキを行った会社のニュースは、ない。

 一般国民には、良いことだ。

 昭和40年、50年には、ストライキの花が咲いていた。

 それだけ、働くための環境が悪い時代だったのだろう。

 特に、鉄道の国鉄などは、年中ストライキを行い、大衆には迷惑の話で、この国鉄ストライキのため、現在の民営化が進み、国鉄の組合活動も治まった。 

 航空界でも、当時は組合の力が強く、良くストライキが行われていた、

 年に2度もストライキを実施した、時もある。

 当時、俺も組合の執行役員を行った経験がある。

 安全担当であったが、自分の時間的に大変な労力であった。

 仕事は、普段どうり、行い、ブライベート時間で組合の仕事を行う。

 年に何回かの、会社との団体交渉、初めての組合活動、時間がない、疲れる。

 せっかく、会社から前進回答を貰っても、組合員からは、ブーイング。

 やってられっかよ。

 誰もが執行役員になる、ことを嫌がった。

 しかし、組合員の中には、この活動に生きがいを感じる人もいて、活発な組合活動が出来た。

 この活動により、空の安全は、保たれたと言っても過言ではない。

 何しろ、安全にはお金が必要だ、

 会社は、なるべく安くして、予算を減らすのが目的なので、会社側が必要であるということを認識していても、お金は出さない、出せない。

 C社のYSには、B社にあるような、性能の良い、飛行機のレーダーもない。

 つまり揺れる雲の中を手探りで必死に揺れない、安全な行き先を見つけながら飛行する。

 よくぞ安全が保たれものだ、自動操縦装置もない、C社のYS-11。

 満席のお客様を乗せて、死に物狂いで、仕事をしたことを、思い出す。

 会社との団体交渉では、1次回答、2次回答、3次回答がある。

 会社の1次回答は、とても組合が飲めない解答。交渉決裂。

 組合はストライキを行うと宣言する。

 深夜、2回目の、団体交渉。

 賃金を回答より、ちょっとだけアップしましょう、と会社解答、ブレークして組合での協議、こんなんでは、話にならない。拒否を決定。

 朝方近くに3回目の会社と団体交渉。

 YS-11にも、レーダーを取り付けるという回答があった、【全機ではない、ほんの数機】

 前進回答、組合委員長、明日、いや今日のストライキは中止します。

 こんなこともあったな。

 現在は、組合自体が、組合員が少なくなり、弱体化して、ストライキを構えることも出来なくなったらしい、

 働く人も。パート、アルバイト、派遣社員契約社員などが、混合しているので、組合どころではない状況なのだろう。

時代の変化か。

 また、現在の若者が有給休暇やブライベート時間を使用して、組合活動を行う人も少なくなったのであろう。

 ストライキは、ない方が、一般国民には、良いことだ。

久し振りの同窓会

                                 我が家のユリ

久し振りの同窓会

 毎年行われていた、高校時代の同窓会はコロナのため3年間は行われていない。

 しかし、コロナの勢いは衰えないので今年も中止かと思っていたら、幹事の方から連絡があった。

 久しく会っていないので、コロナの第8波が来ない前に、同窓会をやりましょう。

 いかがですか、行きますよ。

 同窓会の場所は上野公園内の、食事処に予約しました。

 上野公園か、懐かしな、

 友人と連絡して、上野公園の前の東京文化会館の前で落ち合う約束をした。

 東京文化会館は、だいぶ前だが、オペラの演奏を聴きに行ったところなので、分かりやすい。

 そのオペラの会場で、今は亡き安倍総理の奥様に出あったことを思い出す。

 上野の駅は、横浜の田舎者には分かりにくい。

 上野到着後ウロウロしながら,公園出口を探した。

 出口は駅の3階か。出口を間違うと、とんでもない場所に出て、さらにウロウロする。

 まごまごしながら上野公園出口を出ることが出来た。

 そしてすぐに、文化会館前に行くことが出来た。

 ここで会う友人も駅で迷ったらしい。

 すぐに、食事処に行く。

 文化会館の裏手にある昔ながらの食事処は会席料理の美味しいお店であった、

 秘密の男女の密会処になるような雰囲気の場所であった、

 なかなか予約が取れなくて大変だったと幹事は、言っていた。

 久し振りに会う同級生は元気者ばかりだ。

 楽しく高校時代の思い出話に花が咲く。

 しかし・、いつもの会と同じ話題ばかりだな。 病気の話、孫自慢、高校時代の悪さの話題。

後期高齢者なので同じ話題でもまあいいか。 

 しかし今回は歴史の話題があった、

 懐かしい高校時代の日本史、世界史の話題で楽しかった、高校時代の授業のことを思いだす。

 私、世界史100点満点と昔の彼女は、自慢する。俺は40点で再試験だったな、

 世界史や日本史を詳しく勉強すれば、後の人生にきっと役に立つのだというのが、我々の結論だ。

 現在の学校教育は、日本史や世界史を教えないのは、おかしい。ソウダソウダ。

 高校時代の世界史の先生の講義は面白かった、未だに仲間は世界史にあこがれ、インド文明、エジプト文明を研究して、いる者もいる。

 酔っぱらって同窓会を終了して上野公園を探索する、 なんとか、フエスタバルで、あちこちで、路上演奏会をやっていた、

 外人の演奏者が多かったが、中には日本人の演奏者もいた。

 ハーモニカを吹いてた演奏者が突然帽子を前に出した、

 投げ銭の要求だ。

 心優しい、同級生時代の彼女は、小銭を帽子に入れてやった、

 相変わらず優しいな。

 帰りかけるとハーモニカの演奏者は、曲目を変えた。

 俺は河原の枯れすすき、同じーーお前も枯れススキーーー

 なんだと。もうすこし元気の出る曲を吹けよ。

 せっかく小銭を入れてやったのに。

 まだまだ、枯れては、いないぞ、

 投げ銭を返せ。