我が家の近くに旧東海道がある。
江戸時代に日本の人が歩いて京都や大阪、鹿児島まで通行した道路だ。
この道が東海道であったという標識があちこちに立っており万人が歴史の流れを勉強できるようになっている。
現在マグロの切り身が日本一に安くて旨いと評判の横浜松原商店街の入り口にもある。
松原の名前があるのだから昔はこの辺が海辺で松の木が沢山あるところだったのあろう。
商店街の前は海だったのだ。
今は沢山のビルだらけで海があったなどとは想像がつかない。
俺が横浜に住み着いたのは昭和48年であったが、横浜三ッ沢公園に通じる道路の交差点浅間町交差点、いつも渋滞で有名な交差点の近くのマンションであったが、工事関係者がマンションを作る時に基礎工事に苦労したと言っていた。
地面を掘り下げると下は砂。
砂の中にマンションの基礎を作るのは、大変だったという。
従って松原商店街の前は、間違いなく海だったのだ。
松原商店街を過ぎると代官様がいた関所もあったという。
弥二さん北さんの東海道膝栗げによると、現在の俺が住んでいる、保土ヶ谷は山賊が住んでいたらしい。
山賊の街にいるのか。
江戸時代には、この東海道を御殿様がシタニシタニーと言いながら通行したのだ。
俺たち平民は道路わきにひれ伏してお殿様の通行をやりすごす。
その交差点の上に本覚寺というお寺がある。
鹿児島のお殿様、島津様がこの東海道を通行中、イギリスの人が4人馬で殿様の通行中の前を走る。
無礼者、鹿児島の武士が一人を切り殺した。
残り3人は負傷したので、青木橋の近くにある、本覚寺で治療したという。
日本の文化を理解しないイギリス人は、びっくりしたであろう。
日本よりも文明の進んでいたイギリスが日本を植民地にしようと狙っていたのだろう、
イギリスは、鹿児島藩を軍艦で攻撃して、鹿児島市内は火事になるが、ひるむことのなかった鹿児島の武士たち。
イギリスとの文明の違いに気が付く。
その後、幕府の無能にたてつき、新しい時代が始まるきっかけになった。
生麦事件 イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、全部繋がっている。
東海道を歩いて旅してみたくなった。
年齢的にもう無理かな。
歩け歩け