横浜
昭和41年(1966年)の航空事故
この年は、日本の航空界にとっては、最悪の年であった。
航空事故がたて続きに起きた年である。
2月4日 B社のB727が羽田沖で消息を絶つ。
墜落だ。
札幌の雪まつりの帰りの満席のお客様を乗せたまま、東京湾の藻屑と消えた。
その後、引き上げ作業をして原因を確かめたが、結論は出ていない。
俺なりに推測すれば、空中でのスピードを制限する、スポイラーの作動ミスではないかと思う。
進入中の航空機の窓から見ると、翼の上に、飛び出る鉄板がスポイラーだ。
このスポイラーは制限事項として、3千フイート(千M)以下では使用禁止になっているが、納めるのを忘れたか、納めたのに機能しなかったのか。
これを使用していると、降下レートは急激に増して、海に突っ込む。
回復操作には、高度な技術が必要だ。
また、当時は、パイロットは、飛行機野郎と呼ばれた時代だ、
航空法は出来たばかりで、機長判断で、比較的自由に大空を飛行出来た時代だ。
有視界飛行、計器飛行とを自由に切り替えて飛行できた。
有視界飛行は管制官の指示に従わずに自由に飛行できた。
大阪から羽田まで現在は1時間以上かかるが、当時27分で飛行した記録もある。
早く飛行しようと、当時の機長はいろいろと研究したものだ、
札幌から帰りの便も、早く羽田に降ろしたいという、機長判断が事故を招いたと思う。
昭和41年のB社の事故の1か月後の3月4日事故が発生する。
ホンコン発のカナダDC8が羽田の霧の中で進入灯に足を引っかけて、防波堤に衝突する、
ILSと言って、飛行機の進入角度を示す装置が、故障したのか、なかったための事故だ。
現在では、起こらない地上装置の不備による事故。
さらに、この事故の次の日にはイギリスのB707が富士山付近で空中分解する。
日本の冬場で季節風の一番強い日でもある。
機長は、お客様サービスで香港に帰る途中の富士山を見せようとして、富士山に近寄る。
山岳風と言って、富士山を超えた風は、ぐるぐるまわりをする。
乱気流の中で、飛行機は分解か。
機長判断ミス。
さらにさらにだ。
11月13日、松山空港でYS―11が着陸をやり直してすぐに消息を絶った。
原因は不明のまま。
こんなわけで昭和41年は、日本の航空界にとっては、最悪の年になった、