煙草の思い出 その2

                            イーチャン

煙草の思い出 その2

 昭和30年代は、たばこ最盛期の時代だった。 人が集まる場所では、濛々と立ち込める煙草の煙の中で誰も文句を言わなかった。

 喫茶店などは、たばこの煙で大変だった、

 飛行機のたばこも、座席で煙草を吸えた時代である。

 飛行機の座席のひじ掛けの先に煙草の吸殻入れがあった、

 機内清掃のおばさんが、このたばこの吸い殻入れの掃除に苦労をした時である。

 お客様が飛行機にお乗りなり、ようやく離陸して、すぐに機長は、ノースモーキングサインをオフにするのが、離陸操作の中にあった。

 ピンポーン ノースモキングサインがオフになると、すると機内は、たばこの煙になる。

 煙草を吸わない人には、ひどい時代だ。そのうちにノースモキングサインの操作が大変だというパイロットの意見から、離陸後、脚を上がると、ノースモーキングサインが消える装置に変わった飛行機もあった。

しかし、タバコライトを消すスイッチはそのまま残っている。

 一般社会でも、今から考えると、たばこの吸い方のマナーは、非常に悪かった。

 まづは、歩きながらの、たばこ、くわえたばこの人が道路を歩く。

 危ない、他の人に火のついたタバコが当たると大変だ。

 そのまま、ポイ捨て。

 道路は、たばこの吸い殻が散乱する。

 そういえば、モクヒロイという商売の人もいたな。

 道路の棄てられた、たばこの吸殻を、拾い歩く。

 拾った煙草の吸殻をバラバラにして干して、新しいたばこに再生する。

 それ専用の、たばこ紙巻器があった。

 俺も、持っている煙草が無くなると、自分の小さくなった吸殻のたばこの吸い殻を、再度火をつけて、吸ったこともある。

 又残っていた吸殻をバラバラにほぐして、英和辞書の紙で巻いて吸った。辞典の紙が煙草に良く合った。

 英語のページは暗記したので、無くなっても大丈夫と自分なりに納得していた。

 友人にマンゴロのシゲという、あだ名の奴もいた。

 焼き鳥の串で煙草の吸殻を刺して、自分はたばこを購入しないで他の人の吸殻をいつも吸う奴、 名前が繁雄。

 まだ、ハイライトという、フイルターのついた、たばこのない時代の話。

 又、寝室で寝る前に煙草を吸う習慣のおじいさん、おじさん。

 寝たばこによる、火事が多かった時代だ。

 ほとんどの男子が煙草を吸っていたので煙草を吸わない人間には、大変な時代の話だ。

 給料も安くて、満足に煙草を買えないのに無理をして煙草を購入して、たばこを吸う。

 日本男子ここにあり。煙草を咥えて、粋がった馬鹿な俺がいた。

 現在では、考えられない話だ。

 いつの間にか、たばこの害が報道され、徐々に煙草を吸う人間が減って来た。

 良いことだと思う。 

 

鴨川シーワールド

鴨川シーワールド

 菜の花が見たくなった。

 1月の寒い時期にも黄色く咲く菜の花。

 横浜できれいな菜の花を見れるところは、二宮の吾妻公園か。

 昨年吾妻公園には行ったので、今年は房総半島の館山付近の海岸に、昔、昔の旅行で一杯咲いていた、菜の花を思い出した。

 さっそく千倉のホテルを予約して、奥さんと出かけた。

 横浜千葉のアクアラインで行けば、車で2時間 館山に行ける。

 便利になったものだ。

 昔は久里浜からフエリーで行ったなーー

 アクアラインの中間にある、海ほたるで休憩する。

 家内が前回、海ほたるに来た時、食べた、アサリラーメンを又食べたいと言っていたので、今回もアサリラーメンとアサリご飯だ。

 美味しかった。アサリが一杯入っていた。

 館山に到着してすぐに海岸線の道路に出る。

 菜の花はどこだ。

 ない、 咲いていない、俺の思っていた、道路沿いに一杯咲いていた菜の花がない。

 過疎化で人間が少なくなり、花を植える人が減ったのであろう。

 残念無念

 早めに千倉のホテルに入り、温泉に切り替えた。

 温泉に浸かり今年の目標でも考えるか。

 温泉とビールと美味しい料理。

 久し振りにゆっくり出来た。

 翌朝、せっかく房総半島に来たので、千倉から車で40分の鴨川シーワールドに出かけた。

 水族館か。 子供や孫が小さい時には、良く連れて行った、水族館。

 今回は老妻と二人ずれ。

 コロナの中でも水族館は沢山の人が、見学に来ていた。

 水族館のきれいなかわいい、魚を見ると心が癒される。

 シロイルカのパフォーマンスを見学する。

 シロイルカ八景島の水族館にもいたな。

 確か、頭を見学者が触ることが出来たな。

 鴨川のシロイルカもかわいい。 

 いつも笑っているように見える。 

 水槽での行動、表情も人なれしている。

 鴨川ではシロイルカが音に反応するのが見せ所だ。

 水中マイクで鳴き声迄出すパフオーマンス

 かわいい。

 次はアシカのパフーマンス。

 見学者も忙しい、

 アシカは、おいしそうにアジやイカ、シシャモを演技の度にパクパク食べる。

 若くてかわいい女性の飼育員も見事だ。

 俺の朝食ではシシャモはなかったぞ。

 最後はイルカのショーを見て、鴨川シーワールドを後にした。

楽しい旅でした。

煙草の思い出 その1

                           我が家の7草粥

 タバコの思い出 その1

 俺は高校3年生の3学期から煙草を吸っていた。

 昭和30年、40年はたばこ時代だ。

 煙草を吸わないのは男ではない、という風潮の時代であった。

 どこの場所でも、たばこを吸っても文句が出ない時代。

 現在の様に市長が煙草を吸ってポイ捨てして、新聞やニュースになる時代ではない。

 もうすぐ高校卒業、俺も男になるぞ。

 親に隠れて、オヤジのたばこを、掠め取った。

 高校時代、アルバイトが出来たので、自分の小遣いで煙草を購入した、

 バット、いこい、新生、安いたばこばかりだ。

 かっこつけて、女の子の前で、たばこの煙を吐いて,粋がったものだ、

馬鹿者だった俺。

 航空学生になり、激しい訓練の中でも、たばこは止めなかった。

 やめることが、出来なかったのが本心だ。

 夕食後や朝起きた時のたばこの旨さは格別の味がしたからだ。

 その後、俺も成長して、大人になる。

 航空学生時代からのラグビーの選手として活動は、30歳過ぎ迄、続けていた。

 ラグビーの出来る最盛期は、27歳くらいかな。

 がむしゃらに、突っ込み、タックルするには、体力が必要なのだ。

 27歳くらいから、なぜか体力が落ちるのを感じる。

 その体力が落ちる分、今度は頭を使って、ラグビーの攻撃に参加する、

 頭も体力も30歳を過ぎるころから、20代の様に働くなる。

 それでもラグビーは、好きだからやりたい。

 ラグビーで相手にタックルしたい、スクラムで5CM前に出たい、密集から抜き出て、トライをしたい。

 ラグビーで最後の力を生み出すためには、どうするか。

 俺の弱い頭で考えだしたのが、禁煙だ。

 試しに禁煙してラグビーの練習をすると、スクラムで2CM前に進むことが出来た。

 禁煙するぞ、ラグビー仲間に宣言した、

 禁煙なんて出来るわけないだろうと、仲間から、笑われた。

 これが良かった。

 俺の気持が定まる。

 ポケットに煙草を入れて、吸いたくなったら、手で触り。よしよし。煙草を吸った気分になる。

 どうしても我慢が出来ないときは、ガムを噛んで、たばこは吸わない。

 自分の気持と戦いながら、32歳で煙草を止めることが出来た。

 めでたし めでたし。

昭和は遠くなりにけり

                                横浜

 昭和は遠くに成りにけり

 R4年N局の紅白歌合戦を見た

 思えば、この紅白歌合戦には、過去の思い出が沢山詰まっている。

 40年前の昭和の時代には、家族全員で、大みそかの行事、年越しそばを食べながら、成人になって生意気になった3人の息子と酒を飲み、紅白歌合戦の最後まで、家族で、あうでもこうでもなし等と、歌の感想をガヤガヤ論じながら、お酒を飲む。

 成人した息子たちと、飲む酒は旨い。

 そのうち、俺は、ろれつも回らなくなるくらい、酔っぱらってしまう。

 それでも零時のお寺の鐘の音のテレビになると、家族全員で、近くの神社にお参りに行くのが行事であった。

 俺も元気が溢れていた時代だ。

 神社には、沢山の人が溢れ近所の知り合いに新年の挨拶をする。

 横浜では、お寺の鐘の音と海上に停泊中の汽船が船の仕事で家に帰れない船員が、一斉にボウーボウーと汽笛を鳴らし、横浜だなーーというムードもあった、

 懐かしい、思い出だ、」

 今年の紅白歌合戦は、昭和の歌番組とは、全然異なっていた。

 俺もジジーになったことを痛感する。

 番組に出てくる歌い手の名前も知らない。

 MISIA, SUPERFLY,AIMAN 全然分からない。

 日本人なら、日本語で名前を付けろよ。

 そして、ほとんどが、グループの歌い手、

 多数の人間で舞台の上を、あっちに行ったり、こっちに行ったり。忙しい。

 歌を歌っているのか怒鳴っているのか、ダンスをしてるのか、体操しているのか。

 合唱でもない。 歌の歌詞の意味もよくわからない、

 男か女か分からない、衣装、メーク、そぶり、 男らしく、もう少しシャキとしろよ、

 女らしく、しとやかにして、歌を歌えよ。

 昭和のジジーは、感じてしまう。

 一人で、素晴らしいらい歌を歌っていた昭和の歌手を思い出す、

 ドタバタドタバタ、舞台の上を動きまわっているだけじゃないか。

 そのうち,司会者迄歌いだす。

 有吉、ダチョウ倶楽部、純烈のメンバーが、一緒に歌いだす。

 やってるご本人は、楽しいだろう。

 見ている令和の若者も楽しいだろう。

 昭和のジジーには、訳が分からん。

 一人で歌えよ、工藤静香が出てきた、しんみりとした歌を聴けるのかと思ったら、娘のフルートの奏者とコラボか。 

 若大将、加山雄三さんが、今回最後の出場なので、彼の歌を聴くまで、番組を見よう。

 加山雄三さん登場、

 海、その愛。

 海に抱かれて男ならば

 たとえ破れても燃える夢を持とう

 海に抱かれて男ならば

 たとえ独りでも星をよみながら波の上を行こう。

 いいなー昭和の堂々と一人で力一杯歌を歌うのは。

 昭和の若大将加山雄三さん、万歳

 お疲れさまでした。  昭和よ、さらば

 少年時代

                               横浜駅西口

 少年時代

 どんな人間にも少年少女時代がある。

 俺の少年時代は、昭和20年代

 今思えば、日本が戦後、一番ごたごたして、大変な時代であった。

 まずは、食べる物がない。サツマイモの根っこの芋にサツマイモの茎や葉っぱを入れて食べたこともある。

 何でも食べれれば、おいしかったな。

 現在の子供の様に、あれは嫌だ、これは嫌いだ  なんて言えるような、時代ではなかった。

 でも、みんなたくましく、隣近所が仲良しで隣のおばさんが、お芋を蒸かした時は、近所の悪ガキにもくれた時代だ。

 そういえば、調味料の味噌や醤油を隣に、借りに行ったこともあるな。

 みんな仲良し、現在の様に隣にどんな人が住んでいるか、分からないことはなかった。

 人情豊かな時代であった。

 最近、玄関に表札を出さない人もいるのには、びっくりだ。

 プライマシーの保護とか主張する人間が増えた、

 郵便屋さんが,まごもごする。

 町内会名簿、電話帳名簿も名前の記載が少なくなった。

 学校の連絡簿も無いらしい。

 人間は一人では生きて行けないのに。

 困ったものだ。

 昭和20年代の小学生で、ランドセルを持っている子供はいたかな。

 俺は、ランドセルは買ってもらった、思い出はない。

 確か、横にぶら下げる、肩掛けバックかな。

 そういえば、風呂敷が最高の持ち物だった。

 お金持ちの奥様が、さも、高い値段がするよという、色彩の風呂敷に何か、高級そうな品物を入れて、高級な草履で、しゃなり、しゃりと、舗装の出来ていない、砂利道の道路を歩くのを、少年の俺は、じっと見ていたのを思い出す。

一般庶民は、唐草模様の風呂敷を持ち歩いていた。

 少年は全員,げた。

 下駄屋の店の俺と同じ小学校のきれいな娘さんに、あこがれたものだ。

 下駄の緒はよく切れて、時々走行不能になる。

 手拭いを,割いて、下駄の修理。

 長い事、下駄をはいていると左右アンバランスになる。

 歩きにくい。

 下駄の歯を買ってきて、自分で下駄の修理をしたのだ。

 現在の若者に下駄の修理が出来るものは、いない。

 運動靴はズックと呼んでいた。

 ズックは、配給制で、抽選で当たったものが,新品を身に付けることが出来た時代だ。

 小学校のグランドの体操は裸足。

 グランドの入り口には、足洗い場があった、

 良く足を拭いて校内に入りなさいと看板があった、

 寒い時期は、子供全員、ひび割れ、しもやけの時代だ。

 寝る時は、しもやけは、痒かったなーー

 懐かしい俺の、少年時代。

 

石原慎太郎氏

                              イチョウの木

石原慎太郎

 石原慎太郎氏がお亡くなりになった。

 我が家の本棚には、彼の本が多数並んでいる。

 弟の石原裕次郎氏のことを書いた、弟、田中角栄氏のことを書いた、天才。

 老いてこそ人生の本などだ、

 老いてこそ人生は、3度ほど読んで、俺の老後の生き方の参考にしている。

 そんな本を懐かしく眺めていたら、太陽の季節の本まである。

 懐かしいな。

 太陽の季節の本が発売され時は、俺の青春時代だ。

 若い時のことを思い出す。

 確か何で、障子の紙を突き破ったとかいう表現もあったかな。

 彼は勃起した陰茎を外から障子に突きたてた、障子は乾いた音を立て破れ、それを見た英子は読んでいた、本を力一杯、障子にぶっけたのだ。本は見事、的に当たって畳に落ちた。 (太陽の季節石原慎太郎新潮文庫

 男の元気にみなぎる、本だよな。

 そんな、俺に人生に影響のあった、石原慎太郎氏。

 ご冥福をお祈りいたします。

 そして、お亡くなりになった後で出版された、本、私という男の生涯、幻冬舎を購入して、読んだ。

 自分と妻の死後の出版のために書かれた自伝。

 ヨットと、政治と、女。

 まさしく日本の男性として生きた石原氏の人生。

 読めば読むほどうらやましい、石原人生。

 人生は、出会いがすべてという。

 学生時代に書いた、太陽の季節芥川賞となり、時の人になる。

 やはり、有名にならなければ、良き人生の出会いはないのかな。

 そうではない。

 やる気と、勇気と度胸が必用だ。

 政治家になっても、慎太郎氏は、ヨット等による、冒険を続ける。

 机の上では、良きアイデアの発想は、ないのだ。

 政治家としても、決断と度胸と出会いの人物の力を借りて、大きな実績を残している。

 現在の政治家の中には、慎太郎氏のような、元気な人物がいないのは、悲しい。

 奥さんは、大学生時代のアルバイト家庭教師の時代に出会った、娘さん。

 よくある話だ、

 その他、多数の有能な女性との出会い。

 本の中では、楽しそうに語っている。

 英雄色を好むか、

 うらやましい、人生。

 俺も、慎太郎氏の足元にも及ばないが、同じ時代に楽しく生きてきた。

 湘南の海、ヨット、きれいな女性、夜空、

 海の青さ、海の怖さ。

 弟、石原裕次郎氏。

 たった一度の体験として迎える自分の死なるものを,目を凝らして見つめて、天国に行った、慎太郎氏。さらば。

ほうれん草のオシタシ

                            横浜赤レンガ倉庫

ほうれん草のおしたし

 数十年前にある成功した大きな工務店の社長の講話を聴いた。

 社長の社員教育はホウレンソウだという。

 つまり

 報告する、連絡する、相談する。

 この3個を大事に実施すれば・、仕事は上手くいくという。

 なるほど。

 今日行った、作業の経過報告は大事だ。

 作業の進行状況は、社長以下全員が知っている事。 

 作業の前の日には、関係部署に事前に連絡して、今日の作業をスムーズに進める。

 そして、自分のできないことや、仕事上の出来ないことには、仲間や上司に相談する。

 ほうれん草で会社は成長したという。

 もっともなことだ。それにしても

 昭和の大工さんはかっこよかったな。

 はげ頭に手拭いを巻いて、新築の家の前で カンナで家に使う材木を削る。

 すごい技術が必用だった、

 シュウーーーシュウーー

 子供の俺は飽きずに眺めていた。

 そして、口に釘を何本か、含み、口の中から、1本づづ、出して、トンカチで板に打ち付ける。

 子供の俺は真剣に、大工さん誤って、飲み込まないかなと心配したものだ。

 令和の時代の大工さんは、出来るかな。

 現在は、あらかじめ機械で作った、家の部品をコンテナで運んできて、重ねて、ノリ漬けして、家の形にしてしまう工程だ、ものな。

 大工さんの仕事も時代と共に変わってきた。

 あの、工務店の社長は今でも、ほうれん草と言っているのか疑問だ。

 時代は移り変わる。

 人間も前の時代とは異なる。

 現在の若者は3Kを嫌う。

 汚い、きつい、危険な仕事はしない。

 困ったものだ。

 しかし工務店の仕事はしなければいけない。

 最近は、ほうれん草のオシタシで社員教育を行っているという。

 社員には、怒らない、否定しない、助ける指示する。

 オシタシ、オシタシ

 社長はイライラするだろうな。

 昔は、大工の技術は、眼で盗めと教えられたものだ。

 親方は、何にも教えてくれないという、大工さんの愚痴を聞いたものだ。

 現在のなんにも出来ない若者の大工に怒りたいのをじっと我慢して、親切丁寧に、教えなければ、工務店は成り立たない。

 何にも知らに癖に、勝手に現代風に作業をする若者の言い分も否定しないで、聞かなければならない。

 工務店の社長も若者教育には、昔のようなことは、出来ない時代になった。

 これがいいのか、悪いのか。

 俺には、分からない。

 古い人間になってしまった俺様が、ここにいる。