弁当箱の蓋の米粒

弁当箱の蓋

 久し振りに、横浜崎陽軒のシューマイ弁当を、いただいた。

 昔は、値段が500円くらいで、あったのが、現在は950円か。

 物価は上昇中だな。

 昔ながらの、シュウーマイに鮪の焼き物、空揚げ。卵焼き,切り昆布など。 

 前は鮭の焼き物だったのかな。

 いつも、同じ内容の弁当は、なぜかしら、懐かしさの味がする。

 お米もいい米を使っている、ササニシキかな。

 弁当箱も昔と一緒。弁当箱の蓋は、ヒノキを薄く切ったような、樹脂で、出来ている。

 その蓋に、ご飯粒が付いていた。

 俺は、その一粒、一粒を箸で取りながら食べた。

 それを、見ていた家内が、なんか、貧乏くさいわね、と、つぶやいだ。

 何をいうのか。このお米は、お百姓さんが、丹精込めて作ったお米だ、一粒も無駄にしてはいけないのだ。

 戦後を思い出す。

 昭和20年代の俺の少年時代は、食料不足の時代だった、 

 ご飯の代わりに、芋、かぼちゃ、ヒエ、ムギ、コーリャン等も食べて、過ごしたものだ。

 白米のご飯を、腹いっぱい食べたいと、農家の手伝いに行き、汗をかいて、農家の白米のご飯を頂き、感謝の気持で、幸せを感じたものだ。

 腹一杯の食事が、出来なかった、時代を思い出す。

 昭和30年代、航空学生として、自衛隊に入隊したころの食事は。今の様に並んで、自分で、取るような食事体制ではない。

 食事係が、当番で廻って来る。

 食事を作っいる、所に行って、確か、バッカンと言って、バケツのような、用具に、おかずとお米、汁物を入れてもらう。

 それを、食事当番が、自分の班の人数分の食器に盛り付ける。

 時間が来ると、20名くらいの、人数の訓練生が、机に並ぶ。

 机の一番前には、班長さんが座り、全員揃ったところで、頂きますと大きな声で発声して、食事をしたものだ。

 訓練で、腹ペコの時代だった、

 食事係の時は、自分が座る場所の席の食器に、お米をぎっしり詰める。皆に分からないように。

 おかずも、皆より多めに。

 しめしめ、腹いっぱい食べられるぞ。

 班長は、それを知っていた。

 班員、全員集合したところで、班長さんは,起立、号令をかける。

 バンカエ、一列移動。

 ありゃー、食事係の座るところには、別の人間が、座るのだ。 残念、無念。