その2 YS-11

                            神奈川県県庁

その2 YS-11の思いで

 俺は昭和48年、自衛隊防衛庁割愛制度により、自衛隊を退職して、航空会社C社に入社した。

 C社で初めて乗務したのがYS-11だ。

 当時C社は主力の飛行機はYS-11,その他にジェット機DC-9中型機が入ったころで、大型機のA300、DC-10などは、なかった。

 当時の政府の航空政策は。A社が国際線、B社が儲かる日本の幹線、C社は儲からないローカル腺という基準で行われていた。

 政治家の裏の操作で航空界は動いていた時代である。

 一方航空産業は、戦後中止されていたが。昭和30年代から動き出す。

 何しろアメリカと戦って、負けず劣らずのゼロ戦を開発した日本の航空技術は,継承されなければ、すたれてしまう。

 日本製造の飛行機を作りたい。

 5人の侍が立ち上がる。

 木村先生、堀越二郎先生等だ。

 ゼロ戦は、戦争初期のころは、アメリカが愕いた程の、性能であった。

 しかし、戦争の末期には、人命軽視の思想の、飛行機になってしまった。

 アメリカの飛行機は、操縦室は、完全に保護されている。

 ゼロ戦に、操縦席を射撃されても、パイロットは無事だ。

 ゼロ戦は操縦席の後部にある、鉄板も取り外す。

 ゴムは日本にないので、0戦の翼にある燃料タンクの外側に貼ることが出来ない。

 従ってアメリカの飛行機の機銃射撃に遭うと、すぐに。火が付く設計になる。

 この話しを先輩の元0戦の教官から聞いた時は、俺は涙した。

 飛行機製造を諦めない、航空関係者により。YS-11は、誕生する。

 俺がC社に入社した昭和48年ころは、YS-11の製造は縮小され、YS-11のために作られた,日航製の会社は、解散の時期に当たる。

 そこで働いていた航空技術者は航空会社やその他に転職の時期でもあった。

 C社にも、沢山の日航製の社員だった人がいた、

 主に操縦士訓練所の座学教官として働いていた。

 その教官の方からの、お話で、なぜYS-11という名前が付いたのかを聞いた。

 それは、横浜 杉田で11月に会いましょうのスローガンを出して、横浜の杉田にYS―11の模型を作り、財界人や政府関係者を招待したという。

 そのYS-11のモックアップで宣伝、説明で、ようやく政府の予算が付いたとお話を聞いたこと思い出す。

 戦後、初の日本人製造の飛行機YS-11に乗れたことは、俺としては、最高だ。

 日本で戦後初めて製作された、YS-11、懐かしく思い出す。