イーチャン
YS-11の思いでその1
昭和48年、俺は、防衛庁の割愛操縦士として民間航空会社のC社に入社した。
当時はパイロット不足で、自衛隊の門の前まで、自衛隊のパイロットの引き抜きに、民間航空に入った先輩が現れた時代である。
引き抜きは、困るので防衛庁は年間何名かの操縦士を民間航空に行かせることを約束したのが防衛庁割愛制度になる。
当時俺は海上自衛隊の対潜哨戒機のP2V-7の機長として勤務していた。
年齢は35歳。子供は小学生1年生、と幼稚園。
このまま、自衛隊で過ごすか、民間航空に出てやり直すか、判断の時期である。
自衛隊には階級があり、偉くなるには、相当な努力が必用になる、
また幹部自衛官は2年ごとの転勤もある。
関東に行ったり、東北に行ったり、鹿児島に行ったり、東京の霞が関に行ったりしなければ、偉くなれない。
子供を連れての転勤は大変だ。
当時は、単身赴任は、あまりなかった。
それに、6か月や1年の幹部教育学校制度がある。
中級課程、上級課程、高級課程。
勉強の連続だ。
どうせ勉強するなら、民間の飛行機の勉強が楽しそうだと思い、32歳の時に、割愛の希望を出して3年後にようやく許可がありの、民間転出だ。
民間航空も、転出後すぐには乗務できない。まずは当時C社の主力機であるYS―11の乗務のための訓練と審査を受ける。
また勉強だ。
ようやくJCABのYS―11の限定試験に受かると今度は副操縦士として訓練がある。
なんだかんだで、ようやくYS-11の副操縦士になることが出来た。
民間転出のため俺を引き抜きに来た先輩の話では、機長要員が不足しているので、すぐに機長にするという約束であったが、オイルショックが発生する。
航空界は大打撃を受けて、会社の業務縮小になり、パイロットの不足は無くなる。
すぐには機長には成れなくなった。
すぐに機長にするといった先輩は、俺はそんなことを言ってないという。
しょうがないな。
それから長い副操縦士勤務となった。
まあいいか。
その内、機長になるだろう。
その間、ジェット機MD-80の訓練も始まった、
高度4万フイートの飛行も面白い。
プロペラ機の高度の2倍以上の世界。
マッハ0.84の世界も楽しい思い出だ。
数年後機長訓練が始まり、また元のYS-11の機長,中型ジェット機の機長になれた。
めでたし、めでたし。