愛しの我が家
海上自衛隊に入隊して、いろいろ厳しいパイロット、訓練を受けて、24才にて対潜哨戒機の機長になった。
今思えば、24歳の若造のくせに、生意気な態度で、年上の部下に接していたと思う。
反省しきりであるが、取り返しはつかない。
ごめんなさい。
その後、35才で民間航空会社に転職した。
当時、民間航空には、機長要員が養成に時間がかかるため、いないので、ぜひ自衛隊から補充してくださいという制度が出来た。
防衛庁割愛制度である。
世渡り上手な人は、自衛隊で機長になると。自衛隊を辞めて、家庭の事情とか言って、民間航空に勝手に行ってしまう人間が多く出た。
これでは、自衛隊も訓練にさしつかえが出るので、年間何名のパイロットを民間に出すという制度が、防衛庁パイロット割愛制度である。
俺も、30歳になったころに、自衛隊に残るか、民間航空に行くかの選択を迫られた。
自衛隊生活に比べて、新しい民間の世界にあこがれた時でもあった。
俺も民間航空に転職したいと、希望を出した。
民間航空に転職した先輩の誘いが多かったからだ、
転職するとすぐにYS-11の機長にしてやるというのが俺を誘った先輩の話である。
希望を出してすぐには、転職できない。
ようやく、35才でJASという会社に転職できた。
張り切って入社したのだが、現在のコロナショックと同じように、オイルショックという社会現象にあった。
オイルがなくなったので、日本中が不景気になる。
不景気になると民間航空の飛行機の需要はなくなる。
つまり、パイロットは緊急には、必要になくなる。
やっと、防衛庁割愛で張り切って入社したのに、不景気のため会社はそれどころではない。
すぐに俺たちを機長にすると勧誘した先輩は、そんなことは言っていないという。
なんなんだ、これは。
世の中の景気によって存続する民間会社の実情を肌で感じた時間であった。
その後、長い民間航空会社での下積みの生活が続いたが、世の中の景気が良くなったので40才半ばでめでたく、JASのYS-11の機長になれた。その後、ジェット機の機長に移行でき、60才定年後、熊本の天草航空の開発要員で3年間、勤務できた。
愛しの我が家は、自衛隊の機長から民間航空に転職した時に建てた家である。
転職した時は、会社は社宅として2DKのマンションを与えてくれたが、子供が小学生で大きく成るときだったので、自衛隊の退職金と銀行からの借金でなるべく安い、安い家を購入した。
すべてを安く収めたので10年もすると、ベランダが腐って壊れたり、風呂場が使えなくなったので、我が家の奥様が頑張って、2度目の現在の愛しの我が家に建て替えた。
2度目の家は世の中が、景気が良くなった時なので、剣道仲間の日本では、有名な建築家の先生が設計した現在の愛しの我が家である。
家があるので安心して生活できる。
まずは住むところ、そして食べること。
楽しく生活できることはすばらしい。
その愛しの我が家も最近古くなってきたので、あちこちに不具合が出来てきた。
俺の体と同じように。