横浜
判断と決断
現役のころの思い出は、いつも飛行機が墜落しそうになった、危かった事を思い出す。
緊急事態に遭遇した時に何とかその状況を乗り越えてきたのは、ひとえに先輩の教えを思い出し守ったから、無事故で定年まで過ごせた。
昭和30年代の航空界はほとんどのパイロットは戦時中の人で自衛隊における教育は戦時教育に近かった。
訓練中よく殴られた。 殴られた理由は俺が飛行機の操作を失敗したり、判断を誤った時である。
従って同じ失敗は、また殴られるか、首になるか、なので、二度と同じ誤りをしなくなった。
ゼロ戦乗り、特攻隊の生き残りの教官には感謝している。
その後の空の生活において、訓練の成果でどんな緊急な場合でもすぐに対応できるようになったのも、戦時教育の、たまものであると感謝している。
最近読んだ本に判断と決断は異なるということが記載されてたが、まさしくその通りであると思う。
判断は経験を積むほど正しいものになり、知識を蓄積するほど確信に迫ることが出来る。
正しい判断、間違った判断、良い判断、悪い判断。
今、人生を振り返ると、かなり間違った判断、悪い判断もしたことを反省する。
これは、知識不足と、経験不足が原因であると、現在は考えることが出来る。
決断はこれらかどうするかの意志をはっきりと決める事。
特に基準はない。基準がない中で何を大切にするか、何をしたいのか、の意志だけという。
現役のころ天草エアラインに勤務していたころのことを思い出す。
福岡空港を離陸して脚を上げるレバーを操作したが、脚が上がらなかった。
すぐに緊急操作で上げるよう試みたが上がらない、
さあ―どうしよう。」
そのまま福岡空港に引き返して着陸するのが、通常操作である。新聞に出る。
しかし、会社の連絡や緊急操作をしている間に熊本の上近くまで来たので、そのまま脚を降ろしたまま天草に向かう決断をした。
天草エアラインは一機しか飛行機がない。
福岡に引き返しても直す整備員は天草にしかいない、
脚を直す道具も天草。
脚を出したまま飛行すると速度が遅くなるので管制官には、いつもは計器飛行なのだが,有視界飛行方式にすると通知して機長の判断で飛行する方式で天草に一番近い経路、普賢岳の下にある島原の上などを飛行しながら天草に向かった。
脚を出したままの飛行の責任は全部機長の自分がおう覚悟をした、
判断は頭で行う、決断は腹で行うことを感じたものだ。
その飛行の途中で右側に普賢岳、下に島原市、天草のノリ畑、湯島、ゴルフ場などですと、しきりに、機内アナウンスした。
おかげでお客様からは何のクレームもなかった。
会社の上司からもなんの、お咎めもなかった。
決断には度胸に加えて、要領も必要である。